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 寒さが胸にしみとおるような、ある冬の朝であった。
 私たちがこの世界に来てから、およそ一ヶ月が経った頃であった。いまだ私は朝起きて目覚める度に自分が馴染み深い僧院にいるのではなく、魔術めいた手段によって放り込まれた異世界にいることに戸惑っていた。ふと、もう二度と親兄弟に会うすべもないかもしれぬと思うたびに心弱くも途方もなくさびしく感じたが、それはむしろ、十六という歳の少年では当然のことかもしれない。このみなれぬ土地にひとり放逐されて、一体どうやって生きればいいのだろう? そうした疑問を考えるほどに、どうしようもない不安が膨らんでいった。
 一方その不安の元凶たるアレクセイはというと、私がはじめて彼を見かけたときと変わらぬ呑気そうな様子で街から街へと旅を続けていた。この世界の出身者と見まがうばかりに、いたって平静である。しかし、彼は一度もこの世界に訪れたことはないらしい。ではなぜそんなに慣れた様子なのかと私が訊くと、彼は未知の次元を訪れること自体に慣れているからだ、とこたえた。私はいまだに次元や異世界が、どのようなものであるのかわからないのだが、しかしそのようなものなのだろうか。
 われわれはその時、オストナブルクという名の比較的大きな都市に滞在していた。ちょうどふたつの山脈が交差する場所にあって、北には一つの山が、西と東には四つの山がそれぞれこの都市を取り囲むように聳え立っている都市であった。
「しかし、僕たちはどこに向かっているんですか?」私は前を歩いているアレクセイに呼びかけた。
「その<門>だかなんだかがある、なんて話もここに来てからまったく耳にしていませんし。どこにいったら、元の世界に戻れるんですか?」
「え? さあ……それはわからないなあ。そもそも、<門>は探せばあるというものでもないんだよ。自分で開かないと」
「じゃあもしかして、今まで僕たちは目的地もなく旅をしていたんですか? 冗談じゃありませんよ! 開けるものならとっとと開いてくださいよ。あなたはどうぞ勝手にここを旅して構いませんが、巻き込まれた僕はたまったもんじゃないです」私は思わず声を荒げて(平静心!)しまった。アレクセイがこういう人間だとは既に薄々気付いていたが、これはあまりにも無責任だと私は思った。
「しかし、元の世界に戻れば君だって、私の敵対者に攻撃されるかもしれない。ここでこうしてほとぼりがさめるのを待つのが、一番安全なんだ」
「でも待つといっても、もう路銀がほとんどありませんよ。ほとぼりがさめるのを待つとしても、どうにかして生計を立てないといけませんが」
「その話なんだが……」
 アレクセイはそう言いかけて、路傍に広げられている露店の色とりどりの護符の前にしゃがみこんだ。護符はみな、鉛の板に色のついたガラス玉のようなものを嵌め込んだ粗悪なものだった。
「すみませんが、これにはいかなる効能があるのでしょうか」アレクセイは赤いガラスの嵌め込まれた護符を持ち上げると、露店の親父に向かって慇懃な調子で尋ねた。
「ああ、これは悪霊から身を守るためのお守りだよ。それから、魔女や悪意ある魔法からも守ってくれる。なんと銅貨三枚で、あんたはそういう眼に見えない危険から身を守れるんだ」
「銅貨三枚? この貧弱な、魔力ともいえないような魔力で? ただの装身具として売ったほうがまだ罪のないものを、一体どうしてそのような高額で……」
「待て。じゃあ銅貨二枚ならどうだい」
「銅貨一枚。それでも材料費としては高すぎますが、あなたの生活もかかっていることですし、それくらいは払ってあげましょう」
「くそ、なんてやつだ」
 店主はそうぶつぶつ言いながらも、アレクセイから銅貨一枚を受け取って護符を渡した。私はアレクセイの慇懃無礼さになかば呆れながらも、どうしてその商売上手さの片鱗も今までの旅で見せなかったのだろうといぶかしんだ。
「ああ、それと」彼はふと思い出したように口を開いた。「私は魔術を扱う者なのですが、この街で私の技を必要としているところはあるのでしょうか。荒くれたことは苦手なのですが、たいていのお役にはたつでしょう」
「職? だがあんた、学院出じゃないただの呪術師もどきだろうが。どうせあんたは途方もない田舎から来たやつだから知らないだろうが、正規の仕事はみんな魔法学院出身のやつらじゃないと貰えないよ。馬鹿な農夫でも騙してはした金を貰うほうが、街で仕事するより割に合うね」
「私は都会の方が好きなんです。人里離れたところというのは、どうも住み難くて」
「あんた、たいした変人だね。まあ、この町一番の商人のワシュテク家のグロスタールという奴は魔術師といえば何人でも雇いたいそうだから、雇ってくれるかもしれないな」
 アレクセイは丁重に礼を言うと、立ち上がって歩きはじめた。
「で、これからどうするんですか」
「私はこの世界の風習に従って、魔術を生業にしようと思う」
「でも魔術を使うとあなたに敵意を抱く者が、その魔力を嗅ぎつけてしまうんでしょう? あなた自身がそう言いました」私はため息をついた。「それじゃあ逃亡している意味がないんですが」
 彼はああ、とかうん、とか気のない返事をしつつ、さっき買った護符を左手の中で揉むように擦り続けた。十歩ほど歩いて彼が私に護符を見せると、それは見違えるほど美しく輝いていた。さっきまで鉛にしか見えなかった金属は今では銀の艶やかさを持ち、色ガラスは紅玉そのものだった。
「一体何が起こったんです?」
「これに力を吹き込んだだけさ。力といっても、表面的に魔力があるように見えるだけしか与えなかったんだが。それでも、これを着けていればいっぱしの魔術師に見えないかい」
「いっぱしというか、あなたは魔術師そのものじゃないですか。それで?」
「一度これに込めた力を使うだけなら、私が魔術を使った、とは感づかれないかもしれない。でも、わかる存在にはわかってしまうから一時しのぎといわれればそれまでだね」
「よくそう呑気でいられますね。それなら意味ないじゃないですか」
「いや、でもないよりましとは言わないかい。とにかく、魔術師はわれわれがこの世界で生きていくのにちょうどいい仕事なんだよ。肉体労働は駄目、商人ほど口はまわらない、医師のように特別な技術も持たない人間には。しかし、魔法学院とは……人間とは面白い生き物だねえ」
 私はどう言い返していいのかわからず、黙って彼の後についていった。


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