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 そうこうしているうちに、われわれの一行はグロスタールの甥の住む館に到着した。
 館は暗い色をした石造りの建物で、間近にせまった山の姿を背にした平地に立っていた。城門を出てからずっと畑が広がっていたが、ここまで来るとなぜかぷっつりとその農村風景もなくなっていたので、その静寂さはどこか不自然であるとも思えるほどだった。グロスタールの甥は両親が一度に死んでからずっと、この館に住まっているらしい。
「こういうところに来ると、なんだかわくわくしないか?」
「そういう感想は悪趣味だと思いますよ」
 グロスタールは前もって連絡していたらしく、一人の老いた召使が扉から出てきてわれわれを迎え入れた。この骨と皮ばかりの白髪の老人は、震える手足でグロスタールの乗ってきた馬を小屋に繋ぐと、老齢のために客たちの荷物を持つことが出来ないことを詫びながら館の中へとわれわれを導きいれた。
「ワシュテク家にようこそおいでくださいました。私は召使のフォーギスです。今しばらくすれば若主人様がおいでになりますので、それまでお待ちください」
 われわれは広いが薄暗くて冷たい応接間に迎えられた。部屋の隅にはよく見ると繊細な蜘蛛の巣がそこかしこに張られていて、ここが近頃ほとんど使われてはいないことを物語っていた。
 まもなくすると、この館の主人らしき青年が部屋の戸口のところに現れた。青白い顔は皮膚が薄く、多少やつれているようだった。
「ようこそ叔父上がた。わが屋敷でおくつろぎください」
「久しぶりだな、アピアス。いや、どうぞ座ってくれ。遠慮はいらない」
 彼はそう言われて、卓のまわりの主人用の椅子に座った。天鵞絨張りの椅子だったが、かなり埃にまみれて古ぶるしい。
「気分はどうだね。最近は家に閉じこもってばかりいると聞いていたが」グロスタールはいかにも親切な叔父といった役どころを演じていた。しかし、それが演技であることは誰の目にも明らかだった。
「私の気分がすぐれないのは、生まれつきですよ。もっとも、この屋敷のせいかもしれませんが」甥のほうはというと、彼のことを明らかに好ましく思っていない様子だった。
「と、いうと?」
「ここはご存知のように幽霊屋敷と世間に名高いところです。頻繁に不思議な事件が起こるのですが、実害がない以上対処のしようがないのです。最近も、ここの周辺で若い女の幽霊を見たという使用人が何人もいます」彼は皮肉げな、なんとも説明のつきがたい歪んだ微笑を浮かべた。
「では、もっと街のにぎやかな場所に来るといい。憂鬱な気分などいっぺんに晴れるぞ」
「考えておきますよ。それで、用件はなんでしょうか」
「実は、ゼーナ神の神官がわが家系の宝である象牙の小匣を調査するために貸してくれとおっしゃられてな。神官たちのお墨付きを得られればわが家名も上がるというものだし、謝礼金もお前に払われるというから、お前にそれを勧めてみようかと思ったのだ。悪い話ではないだろう?」
 アピアスは、グロスタールの話に露骨にいやな顔をした。
「しかし、小匣は門外不出の家宝です。そう軽々しく貸し出してよいものではありません」
「まあそういうものなのだろうが、今回は特別だぞ。ゼーナ神は小匣をお造りになられたそのひとであるし、その神官たちも高潔な方々だ」
「そう言われても父の遺言には、決して人に見せたり貸してはならないとあったのです。神官がたには無理であると伝えておいてください」
 アピアスは強情な性質のようだった。また神経質そうな顔は穏やかだが、まったくわれわれを受け入れていない様子であった。
「わしは、実はこの話には裏があるのではないかと思うのだ」このままではどうしようもないと思ったのか、グロスタールは低い声で話しはじめた。
「噂によるとゼーナ神殿には、どうやら小匣が偽物ではないかと疑っている人間がいるらしい。本物はとうに売り払って、何の力もない偽物を置いているのだと。それゆえに先代は晩年になると、小匣を他人に見せるのを拒んだとまことしやかに語る者までいる。どうだ、身から出た錆とまでは言わぬが、お前の父親の偏屈さから出たこの噂はみずから否定したほうが早いとわしは思う。ゼーナ神殿そのものを説得するには、真実を見てもらうほかはないのだぞ」
「確かにそのような噂が流れるのは苦痛です。しかし、そのために遺言に反するのもいかがなものかと思うのです。噂などいつの間にか消えてしまうものですし」
「それでは、私がこの場でその小匣を拝見させていただき、噂を否定する証人にならせていただくというのは可能でしょうか」
 今まで黙っていたアレクセイが突然話しはじめたので、アピアスはすこし驚いたようだった。
「あなたは?」
「私はアイテム鑑定士のアレクセイと申す者です。小匣を神殿に貸し出すのがご無理とおっしゃられるのならば、わたしが失礼ながらここでそれを鑑定させていただき、後日神殿にそのことを報告するというのはいかがでしょうか。そうすれば、お父上の遺言にはなはだしく背くこともございますまい」
「あなたはそれほど神殿に信用を置かれている者なのか?」
「ええ。それにつきましては安心なされて結構です」
 アピアスは決心がつきかねているようだったが、ついに「では、見せるだけ見せよう」と言うと老僕に小匣をとってくるように命じた。
 老僕がうやうやしく紫色の絹に包まれたそれを持ってくると、グロスタールは小さく感嘆の声をあげた。老僕は手に捧げ持ったものを卓にそっと置くと、慎重に絹の包みを解いた。
 小匣は、大きな象牙の塊をくりぬいて繊細な浮き彫りを施したもののように見えた。両手にすっぽりと収まるほどの大きさであったが、その美しさと貴さはそれまで私の見たもの(といっても物質界のものに限るが)すべてに優っていた。蝶番は黄金で造られ、その側面中央に燦然と輝く大粒の青玉が室内の人間の眼を射た。
「これは素晴らしいものですね。間違いなく、この小匣から強い魔力が発散されています」
「もちろん。鑑定するのにどれくらい時間がかかりますか?」
「いえ、たいした時間はかかりませんよ」
 そう言いながらアレクセイはじろじろと小匣を眺め回していた。そしてそっと小匣に触れると、すぐに手を引っこめた。
「失礼ながら、中に何か入っていますか?」
「いや、空だと聞いているが……」と、アピアスが言った。
「開けてみてもよろしいでしょうか」
「では私が開けましょう」そう言うとアピアスは蓋に手を伸ばして開けようとしたが、蓋はびくともしなかった。
「変ですね。鍵をかけているわけでもないのにこんなにがっちり閉まっているなんて」
 何度かアピアスは蓋を開けることを試してみたが、いっこうに蓋が開くことはなかった。青年の顔は力を入れすぎたことでうっすらと高潮していた。
「もしかしたら、中で何かが付着しているのかもしれません。蓋を開けるのはやめておきましょう。壊れたら元も子もありませんし。鑑定の方はもう済みました」
 アレクセイがそう慰めるように言うと、すぐさま老僕が小匣を絹に包んで運び去ってしまった。私が周囲を見回すと、イリーナは小匣が運び去られた後はすぐに下らない儀式に列席しているかのような興味のない顔をしていた。またガンツという名の傭兵は私と目があうと、にやりと唇をゆがめて腰の剣に手を触れた。
「それで、鑑定の方はいかがでしょうか」アピアスがいかにもほっとした様子で尋ねた。小匣を元に戻せるということで安心したのだろう。
「ええ、あれは正真正銘ゼーナ神の造られた小匣であると思います。そう神殿で証言できます」
「しかし、どうして蓋が開かなかったのでしょうか」アピアスは訝しげに尋ねた。
「わかりませんが、とにかく封印のたぐいに類する魔術は働いていません。たぶん物理的な理由から開かなかったのでしょう。案じることはありません」アレクセイは愛想良くそう答えた。
「では神殿によろしくと伝えておいてください」
「ええ。ちょっと席を外していいですか。厠に行きたいので……」アレクセイはそわそわしながら言った。「それなら階下の、廊下の奥にありますよ」アピアスが親切にもそう言った。
 アレクセイが部屋から出ると、今まで黙っていたグロスタールが口を開いた。
「どうかね」
「ええ。安心しました。これで悪い噂も立ち消えるでしょう」
 そのとき、アレクセイが部屋の扉を荒々しく開けた。
「フォーギスが死んでいます。こちらに来てください」慌ててきたかのように息が弾んでいた。
「なんだと」
 グロスタールとアピアス、それに私とイリーナがアレクセイの後をついていくと、廊下に血まみれの老僕が倒れているのが見えた。アレクセイを除くわれわれはみなその死体を見て息を呑んだ。
 老僕は、なにかで喉を深く抉られて死んでいた。血は広い範囲を染めていたが、彼の顔にはひどい苦悶ではなくむしろ純粋な驚きと恐怖が混ざったような表情が浮かんでいた。
「鋭利なもので喉を掻き切られていますね。即死です」アレクセイはこの場にそぐわないくらい明晰に断言した。
 彼は扉の開いた部屋を指差した。「窓が壊されているでしょう。犯人はたぶんあの窓から侵入したのではないでしょうか」
「しかし、われわれは誰も何の物音を聞かなかった。そんな短時間で人間を殺し、逃げられる人間がいますか。暗殺者ならありうるが、フォーギスが狙われる理由はない」
「私はまったく犯人の姿を見ていません。たぶん普通の人間の犯行ではないでしょう。たとえば魔術師ならば出来るかもしれませんが」
「そういえば、小匣は無事か?」グロスタールが今気がついたように尋ねた。
「私が見てきます」そう言うとアピアスは廊下の奥の部屋に入った。しかし、すぐに真っ青な顔になって戻ってきた。
「小匣がない。たぶんフォーギスを殺した奴が盗んだのだ」
「なんだって」グロスタールが血相を変えて叫んだ。
 私はアレクセイに、あなたがこれを仕組んだのではないかと目で問いかけたが、彼はかすかに首を振った。では、本当に第三者が老僕を殺したのか。
 そのとき、廊下で何かが起こっているらしいと知った館の使用人たちとグロスタールの呼んできた傭兵たちがやってきて、あたりは騒然となった。アピアスはどうしていいかわからない様子で青ざめ、グロスタールは突然の事件に呆然とするより不機嫌になっていた。またイリーナは、そして私も少なからず死体の無残な様子に衝撃を受けたようだった。
 そのなかで、ひとりアレクセイは飄々としていた。といっても誰に事態の説明をするのでもなく、あたりの様子を気ままに調べまわっていただけだったが。彼が私に手招きをしたので、私は彼を追って館の外の庭へと出た。
「あなたの仕業だと思いました。でも違うんですか?」人気のない所に来たので、私はそう訊いた。
「私があんなことをすると思うかい」
「あなたならしかねないと思って」
「ずいぶん疑われているんだな。まあ君がそう思うのなら仕方がない。どう思われても私には関係ないしね」本当にどう思われても関係ないといった表情で彼はそう言った。
「あなたはもうちょっと外聞に気をつけるべきですよ。たぶん私だけでなく、みなあなたの仕業だと思っているのではありませんか。危険なことにならないうちに本当の犯人が誰かを暴かなくては」
「誰か? 人間ではないかもしれないのに」
「じゃあ、フォーギスを殺したのは人間ではないんですか」
「いや、人間ではない可能性もあると言ったまでだよ。とりあえず今は二階の窓から侵入して、声を立てずに犠牲者を殺してまた窓から逃げられるような存在が彼を殺したとしか言いようがない」
 そのとき、一人の傭兵が我々のもとにやってきた。グロスタールからの伝言があるのかと私は思ったが、どうやら違うらしい。彼はわれわれからすこし離れたところで立ち止まった。
「鑑定士殿、あんたがあれだけ度胸のある人間だとは思わなかった。褒めてやるよ」
「これはガンツ殿。お褒めに預かって光栄、と普段なら言っているところですが、どうやらあなたは誤解をしておられるように思えて仕方ありません。私は平和を愛する者です。人殺しなどという人倫にも取ることはいたしません」
「まあまあ。館の中は大騒ぎだから、ここにまで気を配る人間はいないぜ。小匣を盗んだんだろう? そしてそれはまだお前が持っているはずだ。ここでひとつ話があるんだが、どうだい、その小匣をグロスタールではなくこの俺に渡す気はないかい」
「私は小匣を盗んではいません。そのお申し出は私にではなく、あの気の毒なフォーギス殿を殺した人間にする方がよいのではありませんか」
「ふん。どうしてもしらを切るつもりのようだな。だが俺はあんたを殺して小匣を奪いとってもいいと思っているんだぞ。気が変わったらいつでも俺にそれを渡せ。そうすればいくらか金を遣ってもいい。わかったか」
「まったく、お門違いもはなはだしいものです。あなたは私が最初にフォーギスの死体を見たからといって、すぐに私を犯人だと決めつけるほど粗雑な思考しか持たないのですか。なんと嘆かわしいことでしょう。今もこの付近に危険な犯人がいるとも限らないのですから、まずは御自分の身の安全を確保した方がよろしい」アレクセイは普段とは違って激しい口調でそう言った。
「なんとでも言いやがれ。俺は必ず小匣を自分のものにする」
 そう言うと、傭兵は向こうのほうへと出て行った。
「しかし、宝物というものも難儀なものだな。それが為にいったい何人が道を誤ったことか」
「宝に罪はありませんが、人の欲が迷いを生じさせるのです。違いますか」
「まあそうとも言うんだろうがね……」
 アレクセイはそのまま庭の裏手の方に歩いていった。するとそこには妙な窪みがあって、覗き込むと土が取り払われて四角い石が露出していた。それは、ちょうどなにかの蓋のように見えた。
「ここから妙な力の気配がする。開けてみようか」
 アレクセイはそう言うと、大声でグロスタールたちを呼んだ。するとすぐに彼とアピアス、イリーナと傭兵たちが駆けつけてきた。
「なにか見つかったのか」
「ここに妙な蓋があります。ここから地下につながっているかもしれません。皆さんで開けていただけませんか」
「蓋ですって。そんなもの、今まで見たこともなかった。いつも庭は歩いていたのに」アピアスは驚いたようにそう言った。
「あんたの父がつくったものに違いない。わしが入ってみよう」
 グロスタールがそう言うと、アピアスは表情を変えて
「いや、私が行こう。父は他人に自分の私室に入られることを嫌ったのだ」と言った。
「お二人がた、地下は危険かもしれません。どうか私たちにお任せください。どのくらい広いかも分からないですし、ここからは妙な気配がします。フォーギスを殺した人間が潜んでいるかもしれません」アレクセイがお互い自分だけ地下に入ろうとする二人のなかに割ってはいった。
「いや、これはお前のような部外者が侵入してはいけないところなのだぞ。これを調べる権利はわしにある」
「では死にたかったらどうぞお好きに、と言いたいところですが、あなたは私の大切な雇用主です。勝手に死なれてはわれわれが困ります。わたしたちとイリーナ、それにガンツが中に入るのでよろしいでしょうか」
「ふん、好きにしろ。だが中の探索については逐一わしに報告しろ」
「ありがとうございます」
 三人がかりで上蓋を開けると、下のほうへと石造りの階段が現れた。闇に閉ざされていて、それがどのくらいまで続いているのはまったく見えなかった。アレクセイと私、イリーナ、ガンツの順で降りることにした。
「ではお先に」
 そう言うと、アレクセイはひとり暗い階段を降りて行こうとした。私たちは後に続いたが、暗くて何も見えなかった。アレクセイが明かりひとつなしにすたすたと先に下ってしまっているので、私は彼の名を呼んで明かりはないのかと言った。
「ああ、そうだった。明かりがないと駄目なのか」
「光がなくとも見えるんですかあんたは。いや、もしそうだとしても肯定しないでください。怖いですから」
 アレクセイは白っぽい光を頭上に出現させた。そういえば、彼が魔術らしい魔術を使うところを久々に見た。一応、自重しているのだろうか?
「おい。なにか見つかったか。見つかったら早く帰ってこい」
 グロスタールがせかすように言った。それを尻目に、われわれは階段を降りきって地下室を見渡した。
 書斎、というにはすこし広い雑然とした部屋が薄ぼんやりした光に照らされていた。書棚が二つ、岩をくりぬいたようなごつごつした壁に面して置かれ、その隣には小さな書き物机があった。
 部屋の中央は、奇妙なくらいがらんとしていた。この雑然とした部屋の中でなにも物が置かれていない唯一の場所だったのだ。しかし、その向こうがわ、部屋の隅には細長い形をした、棺のような木箱がおかれていた。
「なんなんでしょうね、この箱」
 私はひたすら書棚を眺めていたアレクセイに声をかけた。振り向いた彼の顔はすこし興奮していた。
「こんなところでこれらの書物にお目にかかるとは! 私の推察の通りだとすると、なかなか危険な状況だな。いや、あの神とはまったく関係がないぶんいいのだが」
「では、犯人が誰だかわかるんですか」
「いや、それまではわからない。私にとってはどうでもいいし」
「どうでもよくありませんって! なんとしてでも捕まえないと」私がそう言うと、アレクセイは肩をすくめた。
「ああ、それで何の用だい」
「この木箱はいったいなんでしょうか。棺のように見えますけど、中に何も入ってませんね」
「物入れのようにも見えないし。案外棺そのものなんじゃないかね」
 それはぞっとしないな、と思って木箱のそばから離れると、ふと中央の床に奇妙な白い線が書かれてあるのに気づいた。よく見ると、それは円と図形を組み合わせたような形をしており、故郷でいかさま師たちがそれを使って何でも出来ると豪語していた魔法陣に似ているな、と私は思った。
「それはまさしく魔術円だよ」
 アレクセイは私の考えを見透かしたかのように言った。
「分かっていたなら言ってくださいよ。でもこれって何なんですか?」
「んー、まあいろいろな使い方があるんだがね。これは暗い力に関係するかな。線が一部欠けているから分かりづらいが、死者に関するもので……」
「もしかして、あなたの言いたいのはこれが死者蘇生に関する魔法陣だということ? でも、こんな形ははじめて見るわ。死者に関するものならもっと違うはずよ」イリーナが会話に割り込んできてそう言った。
「まあそうかもしれませんが、どう見ても善良な目的に使われていたとは言いがたい雰囲気でしょう」
「まあね。でも、絶対こんな迷信めいたことをしても魔術が成功するわけないわ」
「それはわかりませんが」
「そういえば、妙な気配が何かわかりましたか」
 私はそう言いつつ、頭上の外へとつながる光を見上げた。もしあれが閉まってしまったら、そんなことを考えてしまい、余計に怖くなった。
「考えていたものとは違ったんだが、しかし――来るぞ」
 アレクセイの声が真剣味を帯びたものにいきなり変わった。
 魔法陣の中央に、影のようなものがわだかまっていた。
 それは最初希薄な空気のようだったが、だんだんと密度を増していき物質になった。それは鋭い鉤爪を持っていた。また蝙蝠のように大きい翼が生えていた。しかし、それをなんと表現していいのか分からなかった。そのねじくれた姿はただただ怖ろしく、気味が悪かった。そしてその鉤爪のひとつには、なんと盗まれた小匣があった。
 イリーナとガンツの二人もそれに気がついたようで、振り向いてそれを一瞥するなり押し殺した呻きのようなものを発した。
「これはなんなの? 小匣を盗みだした奴?」イリーナが震える声で言った。
「ええ。魔術師の使い魔のような存在です。鉤爪が鋭いので気をつけてください」
「じゃあガンツ、あなたが戦ってよ。私は近接戦闘が駄目なんだから」
 それを聞いたガンツが慌てた。
「待て。こういうときのためにあんたみたいな魔術師がいるんじゃないか。俺たち傭兵はこんなものと勝ち目のない戦いをするためにここにいるんじゃないんだぞ」
「じゃあアレクセイ、あんたがやってよ。私が無理なんだから」
「ああ、そうだな。あんたがやりあっているうちに俺が後ろからこれを襲うから」
 アレクセイは仕方ない、というような身振りをした。
「わかりました。そうしましょう」
 そのとき急に、怪物がガンツに襲いかかった。彼は剣を抜いてそれを切り払ったが、怪物はそれに痛痒をおぼえることもなく避けてガンツの腕を打ち、彼は剣を落としてしまった。
 イリーナはただおろおろしていたが、アレクセイはガンツの落とした剣を拾うと怪物の背後から切りかかった。狙いあやまたず、鈍い音を立てて刃はその背中に突き刺さった。怪物は不快な音を立てて唸った。
 しかしそのときには、ガンツは腹部を深く抉られていた。大量の血が流れ出て床を濡らし、彼は苦痛と恐怖のあまり膝をついてしまった。怪物は傷にも怯むことなく、鋭い嘴で彼の腹をつつこうとした。
「いったい、どうしたのだ」グロスタールの声が上から響いた。
「怪物が現れて……盗まれた小匣を持って……」イリーナが混乱した声でわめいた。
「怪物だと? それが小匣を盗んだのか? わかった。すぐそこを逃げろ。怪物を燃やし尽くすのだ」
 その声の後すぐに、頭上の入り口から油が流れ落ちてきた。それとともに火のついた布らしきものが落ちてきて油に引火し、あたりはすぐに燃え盛る火の海になっていた。
「アレクセイ! 逃げましょう」
 そのとき、彼は組み付いてきた怪物を体から引き離そうと激しくもみあっていた。負傷したガンツは苦痛に顔をゆがめながら階段の方へとよろよろ歩いていた。イリーナはというと、すぐに上に逃げてしまったらしい。
 彼はかぶりをふった。
「ヨハネス、先に上にあがれ。私はこの書物を運ばなくては」
 そういって怪物を引き剥がすと、それは急にはばたいて凄まじい速さで上の入口まで駆け上がり、空に舞い上がってしまった。上では傭兵たちが矢を射かけていたが、どうすることも出来ずに空の彼方に怪物が消えていくのを見あげるばかりだった。私は慌てて階段を駆け上がった。
 地上に出ると、恐怖に凍りつかんばかりの人々の顔が目に入った。私に続いてガンツが階段を登ってきたが、最後の段で足を踏み外して下へと滑り落ちてしまった。
「ガンツさん!」
 地下室の炎はかなり大きくなっていた。たぶん本に火が燃え移ったのだろう。アレクセイはどうしたのか。そう思っていると、ひとつの人影が階段を上がってきた。
「アレクセイ!」
 彼は右手には数冊の本を抱え、左の肩にぐったりしたガンツを背負っていた。いったいどこからそんな腕力が出るというのだろうか。
 彼は地面にガンツを下ろした。彼は階段を滑り落ちた衝撃と怪物の鉤爪でぐったりとしていて、呼吸も浅かった。
「あ、あれは俺の血を吸いやがった。まるで吸血鬼のように……」そう言うと、彼は意識を失った。その体は異常なほど冷たかった。
 私たちはとりあえず使用人のいく人かに彼を街の医者に運ばせた。だが、命に別状のないかどうかは運しだいだとアレクセイは言った。
「なぜ、火などつけさせたのです? われわれ全員が皆死ぬところでした。それに、このままでしたら怪物を殺すことも出来たはずです」アレクセイの口調は厳しかった。
「お前たちはみな助からないだろうと思ったのだ。だから、ここにいる人間だけでも助かるように燃やした」
「これ以降はこういうことのないようにお願いいたします。われわれはこの火で多大な損害を受けました。ガンツ殿を含めて、です」
 彼はそう言うと、左の脇に抱えていた書物をグロスタールに見せた。そのとき、彼はこっそり薄い小さな本を袖に隠すのが見えたが、誰も何も見咎めなかった。
「これが私の救い出した書物です。魔術関連の本だと思いますが、参考のために拝見させていただいて構いませんでしょうか」
「これは違法な黒魔術の本だぞ。兄の持ち物だろうがなんだろうが、読んではならん。ただでさえこんなものが発見されたのは外聞の悪いことなのに、これ以上の不祥事は起こしたくない」
「しかし、事件に関するかもしれない本なのですよ」
「とにかく、お前のようなどこの馬の骨ともつかぬ奴には見せられない。いいな」
「あなたがこんなに頭の固い方だとは知りませんでした。あとで後悔なされないことを願っておりますよ」
「口はばったいことを言うな。イリーナ、他になにかあったか?」
「いえ、何も……」
 私はなぜ彼女が魔法陣について何も言わないのかといぶかしんだ。自分がわからないものについて言及するのが嫌なのだろうか。
「あの怪物は使い魔です。ですからあれを操っている魔術師はたぶんここからそう離れたところにはいないでしょう。一応探してみますか?」アレクセイがそう提案した。グロスタールもそうする以外には何も出来ないと思ったのか、意外なくらいあっさりとそれを認めた。
 われわれは付近の平野や山林を犯人の足跡を追ってくまなく探したが、芳しい成果を上げることが出来なかった。結局犯人は魔術を用いても見つからないくらい巧妙に姿を隠しているか、もうどこかに去っていってしまったという結論に落ち着いて、われわれとアピアスの使用人たちは館に帰ることにした。
「そういえば、以前からずっと思っていたのですが」私ははるか前方を歩いているイリーナをちらちらと見つめながら、大事なことに気がついてそう言った。
「なぜこの世界の人間は、みなドイツ語を喋っているのでしょうか」
「そんなこと私に聞かれてもわからんなあ。でも、ルルイエ語だのアクロ語にくらべればドイツ語のほうがいいに決まっているじゃないか」
「そういう問題じゃないでしょ。まあ言葉がわかるのはいいことなんですがねえ」
「まあ、そんな些細なことは気にするまでもないさ」
 私がその言葉に反論しようとしたそのとき、かすかに澄んだベルの音のようなものが聞こえ、それにすさまじい断末魔の悲鳴が続いた。
 われわれが駆けつけると、イリーナは全身から血を流して倒れていた。その顔はひどい苦痛を受けたようにねじれ、眼球は破裂してぽっかりと穴が開いていた。
「いったいどうしたのです」アレクセイが手近な傭兵に訊いた。
「女魔術師が、樹のむこうに人の気配がすると言って魔法を放ったんだ。そうするとすぐにこんな姿になって……」彼はかなり動揺しているようだった。彼の見た光景がどんなものであったのか、想像したくもない。
「彼女、もう死んでいるぞ」アレクセイがイリーナの傷を調べながら言った。その仕草はあまりにも死者に対して無慈悲に思えた。
「なんですって」私は思わず叫んだ。私は彼女の、もうほとんど見分けのつかなくなった顔を覗きこんで愕然とした。あの美しさは皮膚一枚のものであった。それは私が幼い頃から老いた修道士たちに幾度となく教えられ、神に仕えるものが心得ていなくてはならないことであったが、どうしてこのように無残なかたちで示されなければならなかったのか。神はなぜ美を美のままにとどめておかれないのだろうか。たとえそれが皮一枚のむなしいものであったとしても。
 そこまで考えて、私はこの世界に主なる神のおられないことを思い出した。また、私がイリーナのことを慕わしく思っていたことにも気づいた。それはあまりにも自然な感情だったので、修道士の戒律に反することであることを忘れてしまいそうだった。いや、それこそ汚らわしい情欲の巧みな罠なのだろうか……
「ヨハネス、われわれはもう戻らなくては」アレクセイは私の物思いを破ってそうささやいた。
 確かに、日はもうとっぷりと暮れていた。薄暮の中の山道は足場が悪く危険だった。大気がだいぶ冷たくなっているためか、あるいは続けざまに起きている惨劇のためか私はぞくぞくする感覚をおぼえた。二人を殺した人間は、確かにこの辺りにいるのだ。
「いったい誰がイリーナを殺したんでしょうか。フォーギスを殺したのと同じ人間ですか? それともなにか別のものなのでしょうか」
「あの時、ベルの音がした。たぶんこのまま終わることはないだろうな。なにか並外れた力を感じる。魔術が絡んでいるんだ」
「いったい、これからどうなるんでしょうか。もし目に見えない悪魔に命を狙われたら、われわれには何も出来ませんよ」
「だが、まだ余裕はある。今日は余計なことをしなければもっと人が死ぬことはないだろう。あくまでも慎重にことを行うべきだ。その意味でイリーナは不幸だった」
「なぜ、そんなふうに人の死を表現できるのか私には理解しかねます。あなたも人間でしょう」
 そう私に言われると、彼はおし黙って歩きはじめた。ふだん不機嫌になることの少ないアレクセイの奇妙な振る舞いに、私は不安を感じた。
 館の前で、アンナという名の下女が私たちを迎え入れた。まだ若い女だが、表情はこの場の雰囲気を察したのか堅く怯えているようにも見えた。
 アレクセイはさっそくグロスタールにイリーナの死を伝えた。そうすると彼は思いもよらぬ事態に表情がこわばったが、すぐに持ち直して殺人者を警戒することを命じた。
 するとそこにアピアスがやって来て、夕食の用意が出来たのでご一緒しませんかと言った。
「今日いちばんの生産的な意見ですな」アレクセイはため息をついてそう言った。たしかにまったく、今日はひどい一日であった。グロスタールもそれに賛同して、われわれは食事の席についた。
 夕食はパンと燻製の魚と豆のスープ、それに葡萄酒だった。質素ではあったが腹は満たされる内容だった。しかし一同はみな浮かぬ顔をして食べていた。私も、イリーナのことを考えると食事が喉を通らなかった。
「ところで、話があるんだが」アレクセイが小さな声で言ったが、私はまた彼がつまらない冗談でも言うのだと思って適当な返事をした。
「なんです」
「実は、私は人間じゃないんだ」
「はい?」時と場所をこころえて冗談を言えと私は言おうとしたが、彼の顔は冗談を言っている顔ではなかった。
「人間じゃなかったら何なんですか」
「それがよくわからないんだ」
 はっきり言って支離滅裂であった。私には事態がよく掴めなかった。
「一応、地球生まれでないから宇宙人……みたいな?」
「そのみたいな、は余計です。と言うか私にはあなたの言うことは全体的に理解不能なんですけど」
「別に理解してくれ、とは言わないが。ついでに私の敵対者とは実はある神とその信者なんだ。もしかしたら、それがこの事件に関わっているかもしれない」
「か、神?」そんな重要なことをどうして今まで言わなかったのだ、あるいはよくもそんな厄介事に巻き込んでくれたな、といおうとしたが、上手い言葉が見つからずに私はどもってしまった。
「うん、ニャルラトテップというんだ。それについてはいつか説明するがね。いや神というのは、それ自身はそれほど執拗に追ってこないものさ。それよりもその崇拝者の方が、ずっと厄介な存在なんだ」
 私は返答に窮して口を閉ざすと、目の前の食事を平らげることに専念しようとしたが、またたく間にその集中はとぎれることとなった。
「……だから私が行ったほうがよかったんだ。あの怪物は、たぶん父が地下室を守らせていた使い魔だったものだ」アピアスとグロスタールが、地下室の件で対立していた。
「だったら、どうして小匣をそれが盗んだのだ? おかしいではないか」
「そこまではわからないが、ほかにそんなことが出来る人間がいるとは思えない。アレクセイ、あなたならどう思いますか?」
 アレクセイはいきなり話題を振られて迷惑そうであったが、少なくとも考えるふりをしていた。
「そうですね、あれを扱えるのはきわめて少数の魔術師に限られます。あれもやはり、お父上と関係している可能性はありますが」
「つまり、あれが父の使い魔と?」
「この僅かな手がかりと結論とを結びつけるとは、あなたの推理は超論理的なことこの上もないようですね。いいえ、私はそう思ってはいません。関係がある可能性が高い、とだけしか今の段階では言えません」
「だ、そうだ」グロスタールがしてやったり、という顔で言った。
「叔父上は私になにか不満でもおありか?」アピアスは不機嫌な顔で言った。
「何を言う。お前がこれほど小匣に関して強情だったから、このような悲劇が起こったのだぞ」
 かくして二人は非生産的な言い争いをはじめた。アレクセイは私にうんざりした視線を送ってきたが、どうしようもないことなのでとりあえず無視してやった。


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