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 私たちは二階の寝室のひとつをあてがわれた。このような事件の渦中で私は眠れないのだろうと思っていたが、いつのまにかうとうととしてきた。ふと、隣の寝台で寝ているはずのアレクセイが言った。
「グロスタールはなにかを隠しているな。それに本当に小匣が欲しいわけでもなさそうだ。小匣が大切なら、火などつけなかった」
「ええっ? ならどうして、私たちにそれを盗ませる計画を立てたのです?」
「それを調べるために、私はこれを持ってきたんだ」
 そう言うと、アレクセイは私にあの薄い本を見せた。それは黒い革で装丁された古い本だった。
「なんですか?」
「地下室にあった、たぶん亡き魔術師の日記だ。他にも「ナコト写本」やら「グラーキの黙示録」やら、面白そうな書物がたくさんあったのだが、みな焼けてしまうかグロスタールにとられてしまった。だがこれだけはこっそり持ち帰ってきたんだ」
「何でよりにもよって日記なんですか。もっと他に重要そうなのがあったんじゃないですか」私は朦朧とした頭でそうこたえた。
「まあ、いいじゃないか。君が寝ている間私はこれを読んでいる。何かわかったら起こすからね」
 たいした理由もないのに叩き起こさないでくださいね、と言おうとしたが、私の魂は既に夢のなかに彷徨い出てしまっていた。

「おい、起きろ! この事件の元凶が分かったぞ」
 アレクセイが騒いでいるので私は起きたが、辛うじて意識を保っているという状態だった。しかし彼がなにか重要なことを発見したらしいということだけはわかった。
「これを読んでみろ」
 アレクセイが私に本の見開きをつきだしたので、私は眠い目をこすりながら読んだ。
『5月3日
 エレンが死んだ。私のせいだ。彼女が私の実験室にやってきたから……。それでなくても彼女には愛人として辛い目にあわせていたというのに。ああ、ハスターよ、ヨグ=ソトースよ、白痴の魔王よ、私に慈悲を。どうしたらエレンを死の世界から呼び戻せるのだろうか。魔術師としての私、一人の人間としての私がともに彼女の蘇生を希求する。
 なんとしてでも彼女を生き返らせるのだ。

 7月12日
 どれもこれも、完璧な蘇生術ではない。私が欲しいのは生きた人間であって、忠実なゾンビでも不死者、つまり吸血鬼のたぐいでもない。エレンの身体には一応防腐処置をしてあるが、それもいつまでもつだろうか。

 7月25日
 セベクよ! 汝の存在に幸いあれ。あの神の力を何とかして引きだせば、エレンは生き返る。
 しかし、それをするには大量の魔力が必要だ。私の力だけではまったく足りない。

 9月15日
 そうか、あの小匣の力を使うのか。あれには強力な、聖なる力が宿っている。しかしそのままでは、死者の蘇生という魔術に用立てることは出来ない。そう悩んでいたところ、不思議な黒い肌の男がやってきて、エレンの血肉を使って小匣を霊的に汚せば、黒魔術にも使えることを教えてくれた。
 だが彼はいったい誰なのだろう?

 10月9日
 私はあることに気づいて愕然とした。あの黒い男は、ニャルラトテップその人だったのだ。かの神は怖ろしいことで有名である。私も気づかないうちに破滅の運命を歩んでいるのかもしれない。
 だが、私の魔術の研究にとってみれば、これは吉兆である。ニャルラトテップは鰐神セベクにたいして不思議な関係を持っているらしい。その「カルテネルの黒き使者」の助けがあったのだから、この魔術の成功する確率はきわめて高い。

 12月5日
 魔術は成功だった。エレンは蘇った。だが……。
 エレンは冥界からここに還ってくる苦痛に耐えられず、発狂してしまった。私のことだけでなく、生きているものすべてを(彼女も生物学的には生きているのに)憎んでいる。だが、一方では私のことを愛しているとも言った。私はもう耐えられない。そう思ってエレンを私の地下の実験室に閉じ込めた。
 ああ、彼女を殺すことが出来たのなら! そもそも、蘇生させなければよかった。しかし私は彼女を再び殺すことも出来ない。彼女への愛はもう消えてしまったが、昔愛した人間なのだから。

 1月13日
 妻が病に倒れたので、私はずっとその看病をしていた。
 そういえば、私は妻をずっと顧みてはいなかった。結婚した当時は愛しあっていたのだが、愛がさめると放っておいてしまった。それが、今になってとても無慈悲なことだとわかった。
 どうして人間は、愚かなものでしかないのだろうか。妻もまた、一人の心をもった人間であることに私はずっと気づかなかった。だがこれほど過ちを犯してしまった後で、それをわかるのはなんと痛ましいことか。
 やはり私の生は、妻と共にあるのかもしれない。

 2月16日
 エレンが消えた。地下室からいなくなったのだ。これは危険なことだった。まるで、獣を野に放ったようなものだからだ。
 私は恐ろしい。エレン、あの狂人の憎悪にさらされることが恐ろしい。だが、結局自分の蒔いた種なのだ。私はどんな結果になっても、それを受け止めよう。
 それが妻と死によって引き裂かれることになっても、だ。』
「あなたは小匣が汚されていることを知っていたんですか」
「ああ。だから妙なことになっているなと思った。だが、それがどんな意味を持っているかまでは分からなかった」
「でしたら、グロスタールかアピアスに言えばよかったんじゃありませんか」
「いや、もしそんなことを言っていたらグロスタールに殺されるよ。彼はどうやら、あまり兄のというかワシュテク家の暗部について触れられたくないらしい」
「それで、あなたはこの一連の殺人はエレンが起こしたものだと思っているのですか」
「そうだ。もし私の近くにいる人間が魔術を使ったらそうとわかるからな。それに、彼の研究室の棚には<黄の印>の捺された書があった。あれで学んだんだろう。ベルを使う魔術もハスターと名状しがたき約束を結んだ者どもが扱うものだし、バイアクヘーの使役こそハスターと最もつながりの深い魔術だ」
「じゃあさっそくエレンを見つけ出さなくては」
「待て、彼女はまだまったくこちら側に尻尾をつかませていないんだぞ。手がかりがなくては私といえども彼女を捕らえるのは無理だ。しかし、彼女はこの夜の間じゅうに行動を起こすだろう」
「行動?」
「ここには九つのモノリスの代わりに楔状に位置する九つの山に囲まれている。また今の季節天上にはアルデバランがある。そして、いまや強大な魔力が手に入った。ハスターの招来には最も好都合な状況なのだぞ。彼女はこの地球上にハスターを降臨させ、ありとあらゆるものを破壊してしまおうと考えるだろう。少なくともこの地域一帯を」
「しかしそれはあまりにも残酷で、無意味ではありませんか?」
「だが彼女はもうこのようにしか考えられないのだ。狂人だからな。だからこそ、私は彼女がここではスターの招来をすると確信しているのだ。そのときに彼女を襲えばいい。狡猾な敵がこちらから姿を晒してくれるのだ。こんなにいい機会はない」
「それで、どうしますか」
「アピアスにこのことを話そう。彼ならグロスタールより私の説得に応じてくれそうだ」
 われわれは部屋を出て、アピアスの寝室へと向かった。するとすぐにアピアス本人と廊下で遭遇した。
「何をしているんですか、こんな夜中に」
「フォーギスとイリーナの命を奪い、小匣を盗んだ人間の正体がわかりました。話を聞いてくれますか」
 アピアスは驚愕した顔で頷き、彼の寝室にわれわれを導きいれた。
「エレン、という名前について知っていますか?」
「たしか、父の愛人だったと言う噂の女性だったと思う。私がまだ小さい頃だからあまりよく覚えていないが、若くして不幸な事故で死んだとか」
「お父上は、魔術の研究をしていらした。そして、彼女を蘇生しようとしたのです。それを知っていましたか」
「いいや、そんな話ははじめてだ。それで?」
「エレンは蘇りました。しかし、そのとき既に蘇生の苦痛により発狂していたのです。彼女はあの地下室に閉じ込められていましたが、まもなく脱出し、行方がわかりません。お父上とお母上の死は、どんなものでしたか?」
「それがおそろしいもので、ふたりとも同じ瞬間に心臓発作で息絶えていたのだ。真夜中のことだったので、他の者が気づいたのは朝になってからのことだが」
「では、それにもエレンが関わっているかもしれませんな。とにかく、彼女は今日ある恐ろしい魔術の儀式を、ここで行います。私は出来うる限りそれを阻みますが、協力を願いたいのです」
「それは、つまり?」
「具体的には、あたり一帯を燃やすことです。魔術的な存在といえども、炎には比較的弱い。油を庭にまくのです。最悪の場合それに火をつけて逃げる以外、通常の人間に出来ることはありません」
「しかし、なぜ彼女は小匣を盗んだのだ?」
「それです。私も以前拝見した時から気にかかっていたのですが、あれは聖なる力を持っているわけではないのです。お父上によってそれは汚され、暗い魔術によって使用されうるものと化していました。その力を使って、彼女は魔術を行おうとしているのです」
「そんなことがあったのなら、言ってくれればよかったのだ!」
「ええ、ですがそのとき私はグロスタール殿との契約のみを履行すればよかったのです。小匣が汚れていようがいまいが、私にとっては重要ではありませんでした」
「彼とどんな契約を交わしたのだ?」
「小匣を盗む契約です。ですが、それはもう実行不可能となりました。エレンの手から小匣を奪うのに、破壊すること以外の方法はおそらく出来ますまい」
「やはり、叔父はあれを狙っていたのか。しかし、そんなことになるとは結果的にみれば気味のいい話だ。さぞや悔しがることだろう」
「さあ、それはわかりませんね。ところで、あなたはあの小匣の周りになにか結界の様なものを張られてはいませんでしたか?」
「いや、とにかくあの部屋からは滅多なことでは出してはいけないと教えられてきた」
「なるほど、ありがとうございます。だから彼女はグロスタール殿がこちらに来た今日を絶好の機会として、行動を起こしたのでしょうね」
 
アレクセイの顔がさっと変わった。いきなり部屋から飛び出して階段を駆け下り、外に出た。私も必死でその後を追った。
 館の庭を走り抜けると、地下室のあったところの近くに人影があった。髪の長い、ほっそりとした女性であった。
 女性は、一心不乱になにか呪文のようなものを唱えていたが、私たちの気配を察したのか手に持った小匣を後手に隠してゆっくりと振り返った。
「もう遅い。まもなく神がここにやってくるでしょう」
 女性はぞっとするような喜悦をはらんだ声でそう言うと、にっと笑った。黒い丈なす髪に縁取られた小さな顔は、青白く冷たく美しかった。だが、目はまるで青い炎のような不健康な輝きを宿し、爛々と光っていた。
「あなたがエレン殿ですね?」アレクセイがこの状況としてはきわめて紳士的にたずねた。
「ええ」ふと、彼女の声が落ち着きを取り戻した。
「恐縮ながら、事ここにいたるまでの経緯というものを説明していただけませんでしょうか。あなたがアピアス殿のお父上の愛人であり、彼の手によって蘇生されたのちその地下室から脱出したところまでは私も知っているのですが」
 私は、そんな悠長な質問に彼女が答えてくれるはずがないと思ったが、意外にも彼女は頷いた。
「あの方は、私をその手で地獄に突き落としたあと、私を捨てました」彼女の声は悲しげな、美しい声だったが、恐ろしいまでの憎悪と、たぶん愛情としか表現することの出来ないなにかがその裏に潜んでいた。彼女は続けた。
「私は蘇生したてで混乱していたのですが……あの方の愛が、もう私にはないことくらいわかりました。彼は再び妻を愛したのです。私を捨てて……だから二人を殺しました。ですが死にゆくときも、あの方は妻とかたく抱きあって、かすかに微笑んでいました。これほどつらいことはありませんでした。冥界から呼び戻されることなど、これにくらべたらほんのささやかなものです」
「そして二人を殺しても気持ちが収まらなかったから、このようなことを?」
「私はワシュテク家が憎い。あの男だけでなく、それと関わりのあるものすべてを殺さなければ心が収まらない」彼女は急にしわがれた声になって呟いた。
「なぜです?」
「私はまだあの方を愛しています。たとえ狂人、怪物と罵られようと……。しかし、もうあの方はいません。ですからこの不条理な世界にすこしでも痛手を与えたいのです。疼いてやまぬ私の心の償いとして」
「しかし、それはあまりにも理不尽です。関係のない人に罪はありません」私は思わず叫んでしまった。
「そうです。理不尽なことです。人の心など、どうにも出来ぬものですのに……ああ、己の浅ましさが恥ずかしい。しかし、こうするしかありませんでした」
「ふむ。それで、グロスタール殿が小匣を結界から持ち出させるという絶好の機会を利用して、復讐を開始したのですね」
「そうです。小匣があの部屋にある限り、私には手出しが出来ませんでした。もっとも、そのために小匣の異変も他人に気づかれませんでしたが。ハスターと取引をして、通常の生物のように食べたり眠ったりしなくてよい体となった私には、むしろそれは好都合でした。時間だけは私はたくさんありましたから。――しかし、グロスタールは愚かな男でした。小匣のことも私のことも、知っていたのにこのようなことを起こしてしまったのですから」
「おそらくグロスタール殿は、それがわかっていたからこそ
小匣を破壊しようとしたのではありませんか。しかし、それが裏目に出てしまった。ときに、あの時バイアクヘーを地下室に使わしたのはなぜです?」
「地下室を破壊して、私について書かれたあの方の手記や魔術書を他人に読まれないようにしようと思ったのです。それに、そうすれば私ではなくあの怪物が自発的にフォーギスを殺して小匣を奪ったように思われるでしょうから。
 私にはもう時間がありません。あなた方のような他人を巻き込んでしまって心苦しいのですが、どうか不幸な星の巡りであったとお思いください。」
 そのとき、何事かが起こっているのを察した傭兵たちが駆け寄ってきた。彼らはエレンのほうに走りよると、ある地点でみな低く呻いてくたくたと倒れてしまった。
「<シュド=メルの赤き印>だ。遠くから弓かなにかで射らないといけないな」アレクセイが早口で私に言った。
 エレンは輝くように喜悦した顔であの小匣を天に差しあげて呪文を唱えると、大気が一変してなにかが空からやってくる気配がしてきた。
 アレクセイは私に、空を絶対に見上げるなと言った。私は上空で何が起きているのか知りたくて気がおかしくなりそうだったが、ずっと地面ばかりを見て耐えていた。
 なにかがやってくる気配はだんだんと強烈なものになってきた。なにか嘆き声のようなものが聞こえてきて、傭兵たちは顔を上げた。
 彼らはいっせいに恐怖の叫び声を上げた。みなおびえてうずくまり、戦う気力すら残っていないらしかった。いったい、上空の何にそう恐怖したのだろうか。私は恐ろしくて立っているのがやっとだった。
 アレクセイは、その間傭兵たちから弓を拝借し、つがえた矢を小匣のほうに向けていた。
 彼が矢を放つと、矢はきっかり小匣に命中した。凄まじい音とともにそれは壊れ、不思議にも大量の血しぶきが起こった。まるで小匣のなかに大量の血が収められていたようだった。そして小匣が破壊されたと同時に、上空の圧迫感はふっと消えてなくなり、エレンの呪文も途絶えた。
「なんてことを!」
 エレンの声は絶望を通り越し、悲鳴のようだった。アレクセイが二つ目の矢を構えた。
 すると、エレンの身体に奇妙な変化が起こった。彼女の体は徐々に、うろこの生えたようなものに変わりつつあった。
「まずい。彼女はハスターの憑依体になりつつある」アレクセイがそう呟いた。
 われわれが恐怖に魅せられた目で見守っているうちに、彼女の姿は血も凍るような悲鳴とともに緑灰色の人体の膨らんだような醜悪な模倣になった。目はもはや鱗に覆われた厚い肉に隠れて見えなくなり、その身体には骨というものが見当たらなかった。
 変身が終わったとたん、それはわれわれのほうに向かって近づいてきた。アレクセイは私の腕を掴んで全速力で逃げ出した。
「アピアス! 火をつけてくれ。われわれの手には負えない怪物が現れた!」
 彼はアピアスにそう怒鳴った。アピアスはわかった、と叫び返して召使たちに持たせていた油を広く撒かせ、火をつけ始めた。しかし、火はなかなか燃え広がらず、アピアスはもっとたくさんの油を召使たちに持ってこさせた。私がふと後ろを振り向くと、ひとつの人馬が館から街の方に逃げるのが見えた。それはグロスタールだった。
 そうこうしている間に、まだその場にうずくまっていた傭兵たちが次々に怪物の触腕に巻き込まれ、苦痛の悲鳴をあげながら死んでいった。冬だからこそ枯れ草で覆われた地面は燃えやすいが、この庭を炎で包むのには油が足りなかった。
 召使たちが館から油壺を持ってきたので、アピアスらはもっと怪物に近いところで油を撒こうとした。アレクセイは、近づきすぎると一瞬で死ぬぞ、油が尽きたら出来るだけ遠くに逃げろと怒鳴った。
 多くの召使らが手持ちの油をすべて使い果たすと、一目散に逃げていった。だが、アピアスは戻ってこなかった。アレクセイは仕方ない、といった顔でアピアスを炎のなかに探したが、なかなか見つからなかった。
「アピアス!」
 アレクセイの声が、炎から比較的に離れている私の耳に入った。だが、すぐにアレクセイは一人で戻ってきた。
「アピアスは?」
「死んだ」
 それだけ言うと、彼は私を連れて一目散にその場から走って逃げた。畑に挟まれた街道をずっと二人で走っていたが、私はとうとう道の途中で力尽きてへたりこんでしまった。
「あとどれくらいですか?」
「いや、これくらい離れればいいだろう。あれも炎に行動を阻まれるだろうしな。太陽に耐えられないから、この夜さえ何とか過ごせば大丈夫だ」
「そうですか……」
 私はほっと安堵の溜息をつくと、いつの間にか眠ってしまった。


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