アレクセイシリーズ

降霊術

雨のしとしと降る夜半のことだった。私とアレクセイはとある安宿に泊まることとなり、その細い廊下に連なる似たような小部屋のひとつに案内された。
 私は夕食をすませて寝る前に、外にある厠で用をして部屋に帰ろうとした。しかしその時はぼんやりしていたのか、われわれの部屋は入り口から三番目の右側にある部屋であったのに、その隣の二番目の部屋の扉を開いてしまった。
 間違えた、と思ったがその時にはもう扉は開いていた。私はすみません、と謝って部屋の中をなるべく見ないようにしていたが、ふとした瞬間にその真っ暗な室内の様子が見えた。
 その部屋は完全に暗闇というわけではなく、部屋の中央には一本の小さな蝋燭の炎が光の円を描き、その周囲には何人かが車座になっているようだった。私はその様子が奇妙だったのと、部屋の住人が明らかに私に対して無言の怒りを発しているのを感じて急いで扉を閉じ、アレクセイのいる部屋に戻った。
 部屋に戻ると、アレクセイは何か言いたげな顔で私を見たが、すぐに興味を失った様子で寝具の上に寝転がった。私はなんとなく妙な気分になったが、それ以上何の会話もないので部屋の明かりを消して寝た。
 しかし部屋を暗くしてしばらくたつと、どこからか奇妙な物音が聞こえてきた。それは乾いた木を折るような音や、なんとも言いがたい独特の音だった。最初私はただの家鳴りだろうと思っていたが、音が大きくなるにつれて私はだんだんと怖くなった。
 しかし、それだけでは終わらなかった。まるで誰かが部屋の中を歩き回っているような気配がしたのだ。私はぞっとして毛布の中で身をかたくした。一体どうすればいいのだろうか。明かりを点ければ収まるかもしれないが、この位置からは手が届かない。だが布団から出るのが怖かった。アレクセイに呼びかけるにも恐怖と緊張で声が出せず、私は麻痺したような頭でどうしようかと混乱していた。
「明かり、つけるぞ」アレクセイがそう言って部屋を明るくした。私が目を開けると、さっきと何も変わらない光景が見えた。私は少し安心して上半身を起こした。
「さっき、誰かの気配がしたんです。あなたも見ましたか?」私は部屋全体を見回しながら、アレクセイにそう言った。確かにさっきのような気配は消えたが、恐怖のためか私にはまだ妙な雰囲気がこの部屋に漂っているように感じられた。部屋にはかすかに重苦しい、湿ったような臭いが立ち込めていたが、さっきまでそんな臭いなど感じられなかったはずであった。
「気配? ああ、気づいたんだ」アレクセイはそっけなくそう言った。宇宙人と自称している彼は私とともに旅をしつつ、こういった超常現象的なものにも深く関わっていた。本当に宇宙人かどうかは知らないが、そういった方面ではかなり強力な人間らしい。それで私がなぜ彼とともにさまざまな地を放浪する羽目になったのかは長くなるのでここでは割愛するが、私個人はとりたててそういったものとは関係ない一般人である。彼は面倒くさいので私のことを他人に紹介する時に親戚だとか助手だとか弟子だとかと言ってごまかすが、そういったものでは断じてない。
「気づいたのなら早くそう言ってくださいよ。性格悪いですね」
 私はそう言ってから、そういえばこいつはそういう奴だったと思った。意地が悪く、時折人を人とも思わない言動をとるのである。
「いや、まあそう言っても信じてくれないだろうし。まあポルターガイストくらいなら実害がないから放っておいてもいいかなと思ったんだ」
「……言ってくださいよ。それで、じゃあ今になってそれを言ったのは実害があるからなんですか」私は一瞬絶句してから、多少は何か言い返したくなってそう言った。たぶん私の幽霊に脅える姿に見飽きたとかそういう理由で明かりをつけたのだろう。しかし、彼の答えは違った。
「うん。けっこう性質の悪いのが来たみたいだね。ほら臭いがするし、しつこいし……どこで憑かれたんだい。普通にしていたらこんなことは起きないよ」
 私はそう言われてすぐに寝る前に遭遇した出来事に思いあたり、すべて話した。するとアレクセイは、
「それはたぶん降霊術かなにかだろうな。素人が興味本位にやったんだろうと思うが、それに性質の悪いのが寄ってきたんだ。お定まりの事件だね」
「ええっ、それに偶然扉を開けた僕が憑かれるなんて迷惑極まりないですよ。それは人の霊なんですか?」
「うーん、よくわからない。悪意を持っている不定形の霊という感じじゃないのかい。下級の悪霊と言えばいいのかな。生まれもつかないそっち側の存在は、けっこう多いよ」
 そのとき、アレクセイの頭上にある小さな窓のガラスが音を立てて割れた。彼はとっさに枕を掴み上げてそれを防いだが、私はそれを見て鳥肌がたつくらい恐怖を感じた。誰かがわれわれの様子をうかがっているのだ!
「喰うぞ」
 アレクセイが、普段の声色とはまったく違う低い声でそう呟いた。また何か起こるのではと私は身構えたが、それきりなにも起きなかった。
「よし。とりあえずこれで去ったみたいだねえ」アレクセイはさっきのドスのきいたような声が信じられないくらいのんびりとした口調で言った。
「さっき喰うって言ってませんでしたか。いったいそれってどういうことですか」私は思わずそう訊いた。だがアレクセイがそれを耳にしたふうもなく、床に散乱したガラスを掃除していたのでそれ以上の詮索は諦めた。
 床のガラスを掃除し終わると、アレクセイが言った。
「隣の部屋に行ってみよう」
「いってあなたのところの霊がこっちに来ましたって言うんですか? それ無理だと思いますよ。もう鍵が閉まっているでしょうし」
「関係ないよ。さあ、行こう」
 アレクセイが立ち上がったので、私もしぶしぶ彼のあとについていった。本当ならば、あんなところに行くのは気まずいのと避けたいので二重の意味で嫌だったのだが。
 アレクセイは二回ノックをして扉を開けた。鍵はしていなかったらしい。我々は部屋の中を見た。
 部屋の中には、さっきと同じように蝋燭を中心に数人の男女が車座になっていた。別段変わったところはなかった。さっきと変わっているのは精神を集中しようとしているのか、みな目を閉じていたことくらいだった。
「すみません。もしやそちらで……」
 アレクセイがそう言いかけた途端、一人の女性がギャアアアーというような恐ろしい叫び声をあげた。それを聞いたのか部屋のなかにいた全員が目を開けてアレクセイの方を、恐怖にも似た目つきで見上げた。
「もう帰ろう」
 アレクセイは私にそう言うと、部屋の扉を閉じて自室に戻った。私は何がなんだかわからなかったが、アレクセイに質問するのもそれはそれで恐ろしかったので黙って彼に従った。彼はすぐに部屋の明かりを消した。
 隣の部屋からはまだドタバタといった物音が響いていたが、私は今度はすぐに寝入ってしまった。

 夜が明けてわれわれが宿の食堂で食事を取っていると、宿の主人がわれわれの隣部屋の、例の集団が起きてこないと言った。部屋に鍵がかかっているらしい。
 もう日は高く上っていたので宿の主人は無理にでも叩き起こそうとして、マスターキーをとると宿舎に向かっていった。
「何か起きたんでしょうか」私はアレクセイに尋ねた。
「さあね」彼は肩をすくめた。
 そのとき、真っ青な顔で宿の主人が戻ってきた。
「いない。もぬけの殻だった。誰か彼らの姿を見た人はいないか」
「窓から外に出たとかではなくて?」宿の女主人が夫をなだめるように言った。
「いいや、窓は鍵がかかっていた。ドアも内側から鍵がかかっていたし……それに荷物が残っていたから、逃げたんじゃないんだ。部屋から消えてしまったとしか思えない」
 宿の主人は顔を恐怖で引きつらせながらそう言い、そしてすぐに奥の方に逃げ込んでしまった。私たちはどうすることも出来ず、呆然としながらそれを見送った。
「仕方ないさ。彼らは愚かだった。あんなことをすれば性質の悪いものを引き寄せるのは自明の理だったのに」アレクセイは宿の主人とその妻が厨房の奥に消えると、ゆっくり紅茶をすすりながらそう言った。
「では、彼らは自分で逃げたのではなく本当に霊によって……」私は徐々に忍びよる戦慄を感じながらそう呟いた。
「まあ、そんなところかな。われわれのところに来た霊は追い払ったが、彼らは遅かれ早かれ似たような危険なものを呼んでいたはずだ。そのどれかにやられたのだろうさ」
 彼はそう言うと、にやりと笑った。
「きっかけをつくるのは、常に人間のほうだよ……私は悪くない」
 アレクセイの口調と微笑みはどこか人間ばなれして冷たく、ぞっとするような嘲笑がこもっていた。私は昨晩アレクセイを見た途端悲鳴をあげた女性のことを思い出した。それは、つまりどういうことなのか。
 私は背筋に一瞬冷たいものを感じたが、それ以上何を言うことも考えることも出来ずにアレクセイを見つめていた。
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