アレクセイシリーズ

幕間話

 白い砂利道を通した林は唐突に終わり、眼前には眩しいくらいに青く輝く夏の海が現れた。
 私はいつもこの付近を歩いていたのにどうして今日に限ってここに来れたのだろうといぶかしみながらも、思わず砂浜の上を歩いて波打ち際に立った。そういえば、アレクセイはむやみに海に近づいてはいけないと言ってはいなかっただろうか。有毒の貝や水母の刺胞が、素足で歩く人の命取りになることがよくあるのだと。しかし、私は靴を穿いていた。
 海は恐ろしいくらいに静かだった。どこか知らない入り江の中であるらしく、波はゆっくりと無人の岸辺を洗い、また引き揚げていった。
 私が穏やかな光景に魅了されているそのとき、背後からちいさくやあ、という声が聞こえた。最初は潮鳴りにまぎれて気づかなかったが、やがて私はそれがまぎれもない人の声だとわかった。
 しかし振り返ってみると、そこには誰もいなかった。私は不思議な気分でまた海のほうに目を向けると、再び私に語りかける声がした。
 私に姿はない。私は入り江。私は夏の終わりに、きまって一人でいるひとにこうして語りかけるのだ。
 潮風が吹いて、私の鼻をつんとさせた。疑いながらも試みに、私は声に問いかけた。あなたは本当に入り江なんですか? しかし、私は声がそう語っている以上、それを信じるしかないことを知っていた。
 そうだ。そして、君がこの浜辺から君の家に帰ることはないだろう。私は一年に一人、この入り江に来た人間をここに閉じ込めてしまうのだ。声は歌うようにそう言った。
 なぜ閉じ込めるんですか。私を閉じ込めて食べてしまうとでも? 私は理不尽な怒りを覚えて言った。
 君はいつか力尽きてこの浜辺に横たわり、その肉を私の中に棲まう蟹や魚たちが食べるだろう。そしてその骨を、私の波が永遠に洗うだろう。砕けて砂の一部になるまで。だからそういう意味では、私は君を食べる。なぜかは私も知らない。私は私であったときから、そういう存在だったのだ。
 私は背後を振り返った。すると、私の通ってきたはずの道はなくなり、遠くに木々の黒い影がちらりと見えるだけで、あとは見渡す限りの白い砂浜が私の周囲に広がっていた。青い空には天高く、遠くの村々に手紙を運ぶ檸檬色の郵便飛行機が孤独に雲のあいだを滑っていた。私は気が遠くなりそうになってその場に腰を下ろした。
 なぜ今なんです。私がなぜ死ななければいけないのですか。私は叫んだ。
 なぜならどんなに日差しが眩しく、海の波頭が輝いていようとも、そう君にだって秋に咲く花のつぼみがもう柔らかくなっていることはわかるはずだからだ。私は君のことを心底すまなく思う。だが君でなかったら、誰か他の人がこうなるはずなのだ。その子のことを嘆く両親の姿を想像したまえ。かわいそうだとは思わないかい。
 それは違う。私だって生きたいし、両親もいるのだ。私はそう反論しようとした。私は両親の顔を長い間見ていない。私がいなくなってしまったことを心配しているだろうか。そして彼らの愛情を受ける代わりに、私はなぜアレクセイと旅をしているんだろうか。彼はあまりに人間と違っていたし、冷淡すぎるのでどんなに私に気を遣っていたとしても、やはり私の心はときどき傷つくのだ。
 そうだ。私がいなくなったと気付いたら、彼は探してくれるのだろうか。それとも、やっぱりそのままどこかに行ってしまうのだろうか。私はふとそう考えた。しかしこれが、私の彼に関する主な不安のひとつであった。彼は私に一度は親切だったが、二度目もそうであるとは限らない。そう考えるのは恐ろしかった。だが、それはありうる話だった。
 彼が近づいてくる。声はその調子を変えてそう言った。どちらかというと、おびえているようにも聞こえた。
 私の投げ出した足に波が絡み付いてきて、ひんやりとした。すぐ目の前に、白い華奢そうな巻貝が波に運ばれて転がってきた。持ち上げてみるとそれは軽く、くるくると巻いた中心は尖っていてさわると心地よかった。彼? 私は訊いた。
 私よりも、ずっと強い存在だよ。彼がここに来たら、私は死んでしまうだろう。
 さっきまでは私を死なせると言っていたのに。私は思わずそう言った。
 私は弱い存在だ。彼の力に触れただけで、老いて脆くなった私の意識は粉々に砕かれてしまうだろう。彼に私を殺す気がなくても、私は死んでしまう。それくらい弱い存在なのだ。君だって、若いころの私だったらすぐにとって食らってしまっただろう。だが、それも出来なくなって久しい。
 声は、確かにだんだん弱っていくかのようだった。私はそれをなんとも言えない気分で聞いていた。
 私に憐憫を感じるのかい? 声はきいた。私はええ、と答えた。
 優しいねえ。でも、君はすぐに私のことを忘れるだろう。私はいわば、悲しいという言葉を知るとき以前の悲しみのようなものだからだ。幼いころの記憶はすぐにあやふやになり、ただ一条の日差しや青い夕闇といった単純なものに集約されてゆくだろうから。
 そこまで言って、声は沈黙した。そしてずっと弱弱しくなって一言だけ振り絞るようにして言った。
 私は怖い……。
 声はもう二度と聞こえなかった。砂浜も海もさっきと変わりなかったが、冷たい死の沈黙がその上にも降り積もるかのようだった。私はあの得体の知れない声に同情を覚えるいわれなどなかったが、ただその弱さと死によって今ではどこか近しい感情を持っていた。それは私がアレクセイに対してはほとんど感じなかったものであった。しかしまた、それは彼が必要としないものでもあった。
 遠くでおーいという声が聞こえた。だが私は振り向くことをせずに、聞きなれた足音が私のほうに近づいてくるのを待った

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