「湿気」

「風呂場に女がいるんです」
 私とアレクセイが店で昼食を食べていると、一人の男がやって来て唐突にそう言った。げっそりとやつれた男の顔に面識はなく、また異様なほどおびえた表情をしていたので私はぎょっとした。
「このままじゃ私は殺されます。助けてください」
 男はやせ細った手でアレクセイの腕にすがりつき、必死の形相で言った。何かただならぬことが起きているらしい。しかし見知らぬ他人にこんなことをする彼自身、どこか常軌を逸しているのではないだろうか。私はどうしたらいいのかわからず、アレクセイの反応を待った。
 アレクセイはというと、落ち着き払って二の腕から男の手をひきはがして口を開いた。
「その女性は生きていらっしゃいますか?」
「死んだはずなんだ。でもいる」
「それでは、あなたの家に案内していただけますか。あなたを助けましょう」
 そう言うと彼は立ち上がった。男はそれを聞くと非常に驚き、また今まで恐怖によって抑えられていたものが一度にあふれ出たようにわあわあ言いながら地面にへたりこんだ。アレクセイは男が衝撃を受けている最中に昼食の精算をすませ、戻ってくると男を立ち上がらせて家まで案内させた。
 男は路地裏のアパートの一階に住んでいた。錆びついたドアを開けると六畳一間とキッチン、トイレ、浴室があるのが見た。我々はすぐにその狭い浴室に向かった。
「ここです。時々女の声がしたり、影が横切るのが見えるんです。あと、そのタイルの染みが顔に似てるでしょう」
 男が、壁面中央にある白いタイルのひとつを指さしてそう言った。確かにタイルには顔に見えないこともない汚れがあった。しかしこれだけでは錯覚と言えるのではないだろうか。私は浴室全体にこもっている湿気に不快感を覚えながらそう考えた。まして一般人とは感覚が違っているだろうこの男ならば、なんでも幽霊のせいと思ってしまうだろう。
「タイル、剥がしましたか?」アレクセイが尋ねた。
「ああ、何度も剥がしては別のに張り替えたんだが、いつも同じ染みがつくんだ。絶対に女の幽霊のせいだ」男は恐怖のにじみ出た声でそう言った。私は、それではもしかしたら、と思ってぞっとした。本当にここには出るんだろうか。
「タイルを剥がす道具を貸してください。ちょっと剥がしてみましょう」
 アレクセイがそう言ったので、男は急いで金槌と鑿のようなものを持ってきた。アレクセイはそれを取るとまず例のタイルを剥がし、続けてその周囲のタイルも剥がして内側のモルタルを露出させた。しかし、そんなに剥がしてどうするというのだろうか。
 あれよあれよと言う間に、人一人立つくらいの広さの灰色のモルタルの下地が現れた。いや、灰色ではなかった。さっきまではそうではなかったのに、見ると赤黒いものが染み出してきているようだった。それは血だった。
 男がうわあああっと言うような声を出した。血の染みはどんどん広がっていた。少し滲みている程度のものだったのが、しだいに広く、生々しくなってついには大量の鮮血をぶちまけたようになった。私は思わず顔を背けた。
 するとちらりと鏡の向こうに、誰かが立っているのが見えた。私はぎゃっと叫んでしまったが、もう一度鏡を見てみると何もなかった。
「いますよ。やばいですよ」私はアレクセイに半泣きになりながらそう訴えた。
「うん。でも大丈夫だ」彼はそう言うと、鮮血の染みにシャワーを浴びせて洗い流してしまった。血は思ったより簡単に流れて、水と一緒に排水溝のなかに消えていった。
「さて」
 アレクセイは男に向きなおった。
「浴室の件は終わりました。しかし、これですべてが解決したわけではありません。これからあなたの部屋の床板を剥がします」
 そう言うと彼は勝手に浴室を出て、六畳に敷かれた布団をどけた。すると布団があった場所の床板の一部だけが、妙に新しかった。
 その木材に向かって鑿を振るおうとするアレクセイに、男が踊りかかった。しかしアレクセイは男の腕を掴むとそのまま投げ飛ばし、男の身体は壁にしたたかぶつかった。
 アレクセイはすぐ床の木材を乱暴に剥がしはじめ、すぐ人ひとりが通れるくらいの穴が開いた。
 アレクセイはその穴を覗いて、こう言った。
「死体がありますね。女の死体です。かなりの年月が経っているようですね」
 すると、男が獣のような悲鳴をあげた。さっき壁にぶつかった痛みで身体を動かしにくいようだったが、それでもここから逃げようとしていた。
 私はとても気分が悪くなっていた。腐臭こそ漂ってこないものの、幽霊と化したかもしれない女の死体が近くにあるのには我慢が出来なかった。
 アレクセイは穴に両手を突っ込んでごそごそやっていたが、すぐに抱えるくらいの大きさの木箱を取り出してきた。
「報酬代わりに、これは貰っておきます。この死体を取り出して警察にでも自首すれば、心霊現象は収まりますよ。まあ、それまであなたの正気が持てばですが、ね」
 そう言うとアレクセイは木箱を持って私を連れ、男のアパートを出た。

 その後聞いた話だが、あの男の部屋から首のない女の白骨死体が発見されたらしい。警察が部屋に入った時にはもう男は心神喪失常態になっていたようだが、詳しい話は聞いていない。
 それより恐ろしいのは、アレクセイが手に入れた木箱の中身である。彼は木箱の中身を私にも、誰にも見せたことがないはずだ。しかし、もしかすると……。
 そう思って私が木箱について尋ねてみると、床に寝転がって無印良品のチーズたらブラックペッパーを齧っていたアレクセイは、
「見ない方がいいよ」
 と、ぼそりと呟いた。それきりその話題は立ち消えた。
 私はそれ以上の詮索を諦めて、木箱のことは考えないようにした。さわらぬ神に祟り無しである。
 しかし、どうしてアレクセイはそんなものを欲しがったのだろうか?
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